ロスは当時
40歳で,インド駐留軍の外科医で陸軍少佐(Surgeon Major)だった。彼は二年間の研究の末,蚊がマラリアを伝播するということを証明した。パトリック・マンソン卿(Sir Patrick Manson)の助言通りだった。マンソンは,当時ロンドンで指導的な立場にあった熱帯医学の専門家であり,蚊がフィラリア(線虫の一種の感染症)を伝播することについて多くの研究をした。蚊がマラリアを伝播するという考えはそれ以前にも提案されたことがある(とくにローマの内科医ランシーニ(Lancini)による1717年のものとか,合州国のアルバート・キング(Albert King)による1882年のものとかは有名である。これらは,マンソンが1894年にその理論を詳しく発展させる前のものである)。
マンソンはロスに,アルフォンス・ラベラン
(Alphonse Laveran)が1880年に発見した,マラリア患者の赤血球中の小さな原虫の顕微鏡プレパラートを見せた。ラベランは,アルジェリアのコンスタンチンにいたフランス陸軍の若い軍医だった。彼は,マラリアで死んだ患者の検死研究によって,血球および組織中の黒い色素沈着を明らかにした。その色素沈着は原虫によるヘモグロビン消化の結果生成した鉄を含んでいた。彼は,マラリアが赤血球の病気であると確信していたが,彼の顕微鏡はたった400倍(直径にして)にしかならず,マラリア原虫はこの倍率ではただ見えるというだけだった。彼の発見は,患者観察の一つの大勝利であり,彼を他の多くの人が失敗したことでの成功へと導いた。彼は,これらの小さなものが本当に寄生虫であって,謎に包まれていたマラリアの原因が見つかったのだということを医学の権威たちに説得するのに大いに難渋した。たまたまパスツール(Pasteur)がラベランを訪ね,ラベランの示すものに大いに心を動かされた。そうであってさえ,1897年には多くの学者は懐疑的であり,ロス自身も,マンソンに説得されるまではそうだった。
インドに戻って,ロスは患者の血液を吸った蚊の体内のマラリア原虫を探した。彼は二年間,失望とフラストレーションをあじわい続けたが,マンソンからの手紙で励まされた。彼は異なる蚊の種が多いこと,そしてただ一種の蚊だけがマラリアを伝播できるのかもしれないことに気付いた。しかし,彼は体系的に同定するいかなる手段ももっていなかった。さて,
1897年8月15日,召使いがいくつかの珍しいボウフラをもってきた。たいていのボウフラよりも小さく,水の表面に平行に横たわっているのだ。次の日,このボウフラは斑のある羽をもった茶色い蚊に育った。後肢を上げて,頭を下げて休んだ。ロスは,10匹のこの種の蚊に自分の患者,ハッサン・カン(Hussein Khan)の血液を吸わせた。8月20日,そのうちたった2匹だけがまだ生き残っていた。彼は一匹を解剖し,顕微鏡を使って観察した。何か新しいものがあった。胃の外壁に,はっきりした嚢腫(cyst)があったのだ。詳しく調べてみると,その嚢腫の中には羽のような黒い色素沈着があることがわかった。それは,マラリア原虫によって寄生されたヒト赤血球の色素沈着と同じものだった。
翌日,彼は二匹目の蚊を解剖してみた。再び嚢腫があり,今度はもっと大きくなっていて,またも色素沈着を含んでいた。彼は蚊の中にマラリア原虫がいるのを見つけたのだった。いまでは,彼の発見にこんなに時間がかかった理由はわかっている。彼は,日中容易に見られる大きな灰色の蚊に自然に集中していたのだ。これはイエカ属
(Culex)とその近縁で,マラリアを伝播しないのだ。小さな茶色のハマダラカ(Anopheles)は隠れがちで,夜間飛翔する。
ロスはマンソンに,自分の新発見を詳述した(スケッチを含む),興奮した手紙を書いた。マンソンは,ロスの発見をエディンバラで行われた英国医学会の大会で報告した。この時点で,ロスはインド駐留軍によってマラリアのない地域に配置されていたが,活発に反抗した数ヶ月後に,彼はカルカッタに行って研究を再開することを許された。ここでもまたヒトマラリアは稀だったが,鳥のマラリアは普通に見られた。この便利なモデルを用いて,ロスはすばやく原虫が感染した蚊が吸血するときに原虫が移行する過程を確立(原虫の胞子小体が蚊の唾液腺に集中していることを鳥マラリア原虫についてまず立証し,翌年ヒトマラリアについても確認)した。
1902年に,彼はノーベル賞を受賞した。前年ジフテリアの血清療法に功績のあったベーリングに次いで,史上二人目の医学・生理学賞授賞者となった。もちろん,ノーベル賞が設けられたのが1901年からだから,1902年の授賞者が史上二人目であることは当然だが,同じマラリアの研究者としてラベランよりも早く授賞したのは,英仏の国力の差によると思われる。ちなみに,ラベランのノーベル賞授賞は,1905年である。
その間に,この発見はグラッシ
(Grassi)と,ローマの彼の研究チームによって確認された。グラッシはマラリア媒介蚊をAnophelesであると同定し,ヒトからヒトへの蚊の媒介を示し,Anophelesからの防護がマラリアからも防護することを示した。マンソンとともに,グラッシの共同研究者,ビグナミ(Bignami)とバスティオネリ(Bastionelli)は重要な実験をした。
彼らは,ローマの三日熱マラリア患者から吸血させたことでマラリア原虫に感染したはずの蚊をロンドンに送った。マンソンは,その蚊に二人のボランティア(自分の長男のソルバーン・マンソン
(Thorburn Manson)と実験助手のジョージ・ウォレン(George Warren))から吸血させた。二人ともマラリアにかかった。病気の伝播が媒介蚊によって起こるという理論が確立されたのだった。