はじめに「マラリアとは?」

マラリアとは,蚊によって媒介されるマラリア原虫(Plasmodium)がヒトにおこす疾患の名称である。語源はmal-ariaで、「悪い空気」を意味する。ヨーロッパ人は、wetな空気を「悪い空気」と感じ、沼地などへいって、「悪い空気」にあたったために激しい悪寒や発熱に見舞われるのだと考えたのである。

マラリア原虫は、分類学上、原生動物門胞子虫綱、プラスモジウム属Plasmodiumに属する。単細胞生物であり、いわゆる寄生虫の中でも、他の動物の細胞内に寄生するのが特徴である。マラリア原虫の宿主となるのは、爬虫類、鳥類、哺乳類だけであり、脊椎動物の中でも魚類や両生類には寄生しない。

マラリア原虫の歴史は人類より古い。従って,ヒトを宿主とする4種類のPlasmodiumは,ヒトが進化するのと一緒にアフリカで進化してきたものと思われる。エジプトの一万年以上前の人骨には,耳下骨形成過多症のものが多く見られるが,この症状は遺伝的にマラリアに抵抗力をもつ鎌型赤血球貧血とともにおこるので,そこでマラリアが淘汰圧として働いていた可能性を濃厚に示唆するものである。ただし,熱帯熱マラリアだけはおそらく例外であって,比較的最近,ヒトをホストとするようになったのだろう。宿主寄生体共進化によって最適病原性に到達するため,ホストとのつきあいが長くなれば25%などという高い致死率でいるはずがないことと,熱帯熱マラリア原虫はヨザルにも感染可能であることが論拠である。さらに,最近になって熱帯熱マラリア原虫DNAの遺伝距離の分析によって「Malaria's Eve6000年前」と発表された(Rich, 1998)

新石器時代にはいると,ヒトの移動にともなって,マラリアは,ヨーロッパ,中東,アジア,インド,中国へと広がった。その中南米へのアジアからの広がりは,おそらくコロンブス以前,紀元1000年以前だっただろう。マラリアがカリブ海の島々へアメリカ本土から到達したのかどうか,それとも奴隷貿易によってアフリカから入ったのかどうかは確かでない。

マラリアの広い分布域は,ハマダラカの適応力と繁殖力による。対照的に,ハマダラカよりはるかに生育条件を選ぶツェツェバエに依存しているため,Trypanosoma bruceiと(それが引き起こす)眠り病の分布は,アフリカの川沿いの熱帯雨林に限定されてきた。ヨーロッパおよび他の温帯地域にもとから住んでいる集団は,マラリアに対して抵抗性の体質を発達させてこなかった。というのは,それが夏だけ流行する疾病だったからである。

マラリアは,アジアや中国の古文書に記録されている。紀元前1500年にインドで編纂された「アタルヴァ・ヴェーダ」にはマラリア調伏の呪法が書かれているし,紀元前1400年の中国(殷代)で作られた青銅碑文に「瘧」を意味する文字が記されている。前漢時代になると,最古の医学書である「黄帝内経」が成立したが,これには,マラリアの診断法と治療法が明記されていた。歴史を通じて,マラリアは熱帯への旅行者──商人,宣教師,兵士──を悩ませてきた。マラリアは,度々,歴史の流れに影響を与えてきたのだ。

古代ギリシャの歴史家,トゥキデイデス(Thucydides)の著書から,早い時期の一例を示そう(ちなみに,ヘロドトスの著書にも,マラリアに触れた部分がある)。彼は,紀元前413年に,アテネのもっとも強力な陸軍が,その主たる敵であったスパルタの同盟国,シチリアのシラクサ港を包囲したときの様子について述べている。

勝利を急いだあまり,アテネの軍隊は,晩夏にシラクサ周辺の湿地にいることを余儀なくされた。シラクサからの報告は,アテネの軍隊に,この都市の人々が徒党を組んで見事な一撃(coup)を与えることを計画しており,うまくいけばアテネに攻め込むつもりであると伝えた。このとき月食がおこった。これは悪い前兆と考えられており,遅れに対してさらなる理由を与えた。そして,アテネの軍隊は,致命的な流行病の被害を受けた。兵士たちは猛烈な発熱をともなうひどい病気になり,多くが二,三日で死んだ。後になってシラクサへの攻撃が指令されたときには,もう遅すぎた。アテネの海軍の強襲も敗戦に終わり,陸軍は病気のために人数が減って弱体化していたので,戦闘をやめて逃げ帰ろうとするものもいて,シラクサの軍隊に崩壊させられた。ごくわずかな生存者は捕虜になり,アテネに逃げ帰った者は一人もいなかった。アテネはこの大敗から立ち直ることはなかった。その結果,スパルタに攻略されるのは避けがたく,それはそんなに遠い先のことではなかった。スパルタのアテネ攻略は,古代ギリシャの統一へとつながり,事実上,ローマが地中海の支配勢力となるのを許した。

この流行病は,ほぼ間違いなくマラリアであり,シラクサからの報告は詐欺であった。シラクサの人々は,晩夏に湿地で野営することの危険を知っていたに違いない。彼らは,おそらく蚊がこの病気を伝播することは知らなかったし,マラリア原虫が暑い季節の間に急速にその生活史を完結することも知らなかったが,それまでの経験が晩夏に湿地で野営することの危険を彼らに教えていたに違いない。アテネの人々も,それを知っているべきだった。というのは,後に医学の父と呼ばれるヒポクラテスが,その著書中の熱病の型についての部分で「周期的に突然出て突然無くなる熱」としてマラリアを記載し,また,夏に湿地でおこる発熱の危険についても警告を発している(「流行病」に書かれている)からである。

かくして,マラリアはヨーロッパの歴史に決定的な影響を与えた。他にも多くの証拠がある。アレキサンダー大王も顕著なマラリアもちであり,紀元前323年に33歳の若さで急死したのは,おそらく脳性マラリアによる。17世紀になってもヨーロッパ全土を覆う流行があった。アメリカ合州国では1930年代まで毎年10万人以上の患者が発生していた。日本でも第二次世界大戦以前は東北,北陸の日本海沿岸を中心として蔓延していたし,戦後も琵琶湖周辺や南西諸島にはかなり長く残存した。

19437月に,アフリカ北部からシチリアへ連合軍が侵入したとき,歴史があやうく繰り返されるところだった。マラリアの危険は,とくにシラクサに向かって進む英国軍に対して予想された。砂漠にはほとんどマラリアはなく,抗マラリアの予防はでたらめなものだった。はたして,5週間の作戦行動の2週間後に,マラリア流行がおこった。医療施設は,6361人の患者によってあふれかえった。患者は平均して3週間病院にいた。しかし,死者は13人だけだったし,抗マラリア部隊がすぐにこの病気をコントロールするための殺虫剤散布をおこなった。英国軍のうち,戦闘による犠牲者とマラリアによる犠牲者はほぼ同数であったが,英国は崩壊を避けることができた。アテネはできなかった。一つの事実を知っていることがこの違いをもたらした。「蚊がマラリアをもたらしたのだ」と。