教育における大切な視点

教育法には、伝統的に二つの大きな流れがある。

1.模倣・伝達様式 知識や技術を伝達する教え方で、「模倣」を重視する。

  こうしなさい・ああしなさいと命令に従わせるが、伝統的なすばらしいもの・最高の教材を模倣させる教育法。教室風景は、教壇があって、生徒は机を並べて教師のほうに向く。

  中国の小学校では、名人の描いた風景画を模倣することを学ばせる。最高のものを見せ、模倣の仕方技術を教える。 それを学ぶと子供たちは一様にほとんど同じような絵が描けるようになる。みなが同じように上手に描くのは、見ていてもすばらしいものである。

2.変容様式 個性と独創性を伸ばす教え方で、「学ぶ」を重視する。

  学習者のもともと持っている潜在能力を引き出す教育法。「想起」させるように仕組み、学習者の態度や生き方を変える変容教育法である。学習者がどのように感じ、どのように理解しているかをしっかりと教育者が見て、学習者の持つ能力をさらに伸ばそうとする。

  イタリアの小学生の絵画学習では、まず対象をよく見させる。各自がどのように感じているかを手を変え品を変えて本人に気づかせるように工夫をする。それぞれの子供がそれぞれの感性で感じ取ったものを、表現するように促す。彼らを見ていると、アトリエで、一流の画家が絵を描いているようである。

 

このように教育法における二つの大きな流れは、西欧と東アジア(日本・中国・韓国)の文化圏での心の違いと表裏一体である。

西欧は個人の利益を優先させる個人主義を重んじ、相互独立的自己観を大切にする。 一人一人は、他者とは明確に独立している、他の人から明確に区別された独立した存在であり、個人としての特性を持っているという信念を持たせるような教育が基本にある。したがって自己の独自性を推奨する教育を目指す。その代わり自己責任も強く育て、行動の原因は、個々の行為者の責任とされる。

東アジア文化圏は、集団の利益を優先する集団主義を重んじ、相互依存的自己観の確立が大切とされる。 他者との関係においてはじめて自己が意味を持つように教育される。すなわち他者の気持ちを推し量ることを強調する教育が基本である。普段日常的に使われる言葉にもそれが表れている。一人称はあくまで「I」である西欧に対して、この子の母親です・何々の部長です・どこそこの先生です・みなから‥‥といわれている人間です・というように他者との関係の上で成り立つ言葉が使われる。集団的・相互依存的といわれるゆえんは、そのグループ内、その集団内、その会社内の関係が最重要視され、いかにそれが好ましくないことであっても、そこで成り立つ考え方、好みを共有しないと村八分になる傾向が強い。全体にあわせられないと「自己卑下」「自己批判的傾向」を強く植えつけられることになる。西欧文化圏では、個人主義、相互独立的なので、自分を表に出すという外交的、フレンドリーという傾向が強くなる。

上記の違いは、包括的思考と分析的思考という点でも認められる。

東アジアで一般的な包括的思考が多く、ある対象を理解するために、その対象を取り巻く文脈やフィールド全体に目を向け、その中での関係に基づいて対象の説明や予測がなされる。したがって抽象的論理を好まず、経験ベースの知識に基づき、たとえ変化や矛盾があってもそれらを認め、複数の視点から対象を全体的に眺め、お互いに対立する命題の間の「中庸」を求めることが強調される。ある対象と別の対象とが関連していることを察知することに優れているので、ある物事が生じる背後にはさまざまな要因があり、そのさまざまな要因の間にもさまざまな関連性が存在することを正確に検知し、何かある結果が生じた場合、その背後に存在する可能性のある要因をすぐに思いつくことができる。

西欧では分析的思考が、特徴的で、対象を全体の中から抽出し、目立たせ、その対象の持つ特性に注意を向け、できるだけ矛盾する要因を排除して、一般的なカテゴリーに分類する・当てはめることが得意である。とにかく対象を分析的に「カテゴリー化」しようとする。特定のカテゴリーの特徴を持っているかどうかで、対象を分類する傾向が強く、特定の規則を基にしたカテゴリーを簡単に学習することができる。

 

以上まとめると、相互独立的自己観と相互依存的自己観にみる心の働きの違いや、分析的思考と包括的思考という思考法の違いは、個人主義を基盤とする文化と集団主義を基盤とする文化との違いと表裏一体となっているということである。教育における大切な視点であるとおもわれる。(教育の方法 佐藤学、社会と文化 山岸俊男一部改変)