1. 教育は何を目指すべきか?
(「教育は何を目指すべきか?」PHPから抜粋、一部修正)
いじめや不登校、学級崩壊や学力低下、さらには青少年による凶悪な犯罪の多発など、昨今の日本の教育問題は、ますます深刻度を増している。現実の教育荒廃を正し、今後の日本の教育を根本から見直すためには、「教育基本法」から再検討しなければならないのではないか——
わが国は明治以来、富国強兵の旗印の下に国を挙げて産業の育成に努め、さらに東大を筆頭に、帝国大学をつくって一丸となって国の力で西洋に追いつくべく、優れた人材養成をしてきた。予定された時間内に、決められた作業に専念し能率を上げ、品質管理の行き届いた均一な製品を生産することが至上命令で、そのためにシングルタスク(分業化、専業化、単純化)にもっとも適したロボットの導入をもっとも積極的にわが国は取り入れた。かくして歴史の巡り合わせと偶然もあって奇跡的に大量生産に見合った工業化社会と経済発展をしてきた。それいけどんどんと世界中を同じ手法で席捲するなかで、膨大な不良債権と赤字財政をかかえたまま呻吟している。1990年ごろからのIT革命の波に乗って、脱工業化にいち早く取り組んだ欧米と東南アジア諸国は、英語が通用する利便性から工業化を一気に飛び越して高度情報化社会に移行し始めた。わが国はこれに後れを取ってしまっている。この高度情報社会に生き残るために、勝ち組はどの国も、教育改革に力を入れ、基礎学力を付けさせるために試験重視、理数教育重視の教育政策を推進している。アメリカでは60年代に始まったリベラリズムとヒューマニズムの運動のなかで、教育革新運動として個性重視、自主性重視の教育が、80年代まで続けられた結果、SATの数学や言語能力の得点低下、17才の13%が日常の読み書きができない、数学は三分の一のヒトしかできないなど、学力の低下と暴力が社会不安という驚くべき事態を招き、これを国家の危機ととらへレーガン、ブッシュ、クリントンと引きつがれた「教育改革」によって試験重視、家庭学習重視などの実施を徹底した結果、今日のアメリカを築いた。
複雑系パラダイムの教育改革と脱工業化社会
1990年代より始まったIT革命はこれまでには考えられなかった変化、新しい展開があり、脱工業化の流れが鮮明に出現し、LINUXのように自由参加方式の選択肢が与えられ、マルティタスクとネットワークが主流の複雑系社会となっている。技術文明における本質的な方向転換が求められている。事前に厳密な契約や規則を定め、分業化された役割分担にしたがって組織的に整然と部品を生産し、組み立てることを前提にしてきた工業化社会の概念からは信じられないほどの無計画である。成り行き任せで、コストも完成時期もはっきりしない、そもそも完成するかどうかも定かでない。このような方式は商品市場では成立せず、無視されてきた。しかしインターネットはこの非工業的な生産方式を実用の世界に定着させた。
二十世紀型工業社会では、大量生産・集中方式のメリットを追及するために全体主義的傾向が支配的であった。学校や地域社会の中で「ノイズ」を発生する人間は否定され、複雑なメンタリティそのものが除外されてきた。皆が均質な常識のもとに生活することが要求されてきた。複雑に因果がからみあうネットワークにおいては、「予測」や「計画」の意味が変わる。些細な出来事が決定的に大きく結果を変える。
複雑系パラダイムは教育現場も変える
従来は詰め込まれた記憶されている知識や情報を問うていたが、一人ひとりの人間の中に知識や情報を詰め込むことより、如何に知識や情報を引きだし利用するかという能力の方が重要性をましている。知識や情報は何も頭の中だけにため込んでおくことはなく、必要に応じてネットワークから取り出せばよい。引きだして利用することができるなら、それはその知識や情報を持っているのと同じことである。だからといって何も知らなくてよいということではない。
たとえば「論語」を古代の木簡で読もうが、粘土版に書き込まれたものを読もうが、紙に印刷されたものであろうが、はたまたデジタル化されたコンピュータから読もうが、ツールはどうでもよい。内容を知っているかどうかが大切なのである。あらゆるツールを開放して、どんな携帯であっても、コンテンツに触れる機会を増やすという発想の転換が必要である。
マルティメイジャー、マルティタスク型の人材育成が急務
学位を複数取得したマルティメイジャー(複数の専門分野)の研究者や教育者が第一線で活躍しているアメリカでは、シングルメイジャーの教授陣に対して DNA の勉強を特訓で受けられる研修講座を作っている。それほどにマルティメイジャー体制への移行に力を注いでいる。シングルメイジャーの教育プログラム内での部分的改善ではダメで、教える側も大きな意識改革が必要である。