Eもう一つの教育観
「武術と武道」―からだを通して考えるーから
著者の甲野善紀は「自分の追及しているものを武道とは言わずに、武術という」ようにしているという。そのこころは「多くの人は、自分の技術の未熟さの逃げ口上として、技術を磨く努力をしないで、「技よりも精神性こそが大事なのだ」といってごまかす。わたしはそうならないように自戒している。だから自らが追求している武の技法の体系を武術と呼んで自戒し、日々は25年続けてきたし、具体的技法は少なくとも週毎に変化しています。稽古とは毎回がライブである」といっています。
「‥‥道」として様式美を追求する傾向が現れると、流派として固定化してしまい、少しでも形式を変えてはいけないといわれるようになる。生死がかかっていた時代の「‥‥道」は、たとえ流派として確立したものであっても、固定化せず、個人がそれを学ぶ中で、必然的に、学ぶ人の体や体系にあった流派を次々に編み出していったものである。
「術」は、質的に転換された動き
「術」は反復稽古を繰り返して達成できるものではない。慣れれば出来るというものではなく、質的に違うものとして進化するものである。武術は、スポーツと違って、命がかかっていたから、自分にできそうもない様式美にこだわることなく何とかしてマスターしたい、できないでは済まされない、命がかかっているという切実な欲求のなかで学ばれていた。術を磨くためには「生死をかける心構え」、いつ死ぬかもしれないという「覚悟」が要求されるものであった。自分がもう絶対にかなわないという状態、絶体絶命の状況、「どうあがいてもやられてしまう」という状況に身を置いて、自分にとってより納得のできる「心のあり方」ができるか、できねば死ぬ、無意味であるという切羽詰った状況の中で、一生懸命に技を磨いた。術とこころ・意志とが自由自在にできるようになってはじめてどのような相手をも制することができるようになるという環境の中で、稽古・鍛錬されていた。
職人の丁稚奉公の効用とマニュアルの弊害
昔は術を身に着けようとするには丁稚奉公が当たり前であった。すぐには何も教えてくれずに、ただ掃除・洗濯・炊事などの雑用ばかりやらされる日々が、年余となることもあった。その間に、先輩の姿を観察し、体の中でこうかなあ、ああかなあと技の感覚をシュミレーションしてゆく日々を続けていた。このような期間は無駄ではなく心身を鍛える醸造期間として非常に大切な修練の時期でもあった。そのうち師匠からこれをやってみろといわれるようになり、失敗もせずうまくこなせるようになるとほめられ、そこに自信が出てきて、さらに上を目指してますます努力するようになる。このような過程で臨機応変な応用力が育ち、身につく。これが丁稚奉公の効用である。現在の学習方法は、このような期間をすっ飛ばして、何でもかんでもマニュアル化して、マニュアルをただ反復練習し・記憶するという学習方法でよしとする(手取り足取り教えられる)。失敗体験から学ぶという習慣がスキップされるので、失敗は怖い、よくないという潜在意識を抱え込んでしまう。進取の気が育たなく、新しいことをする勇気が出ないのみならず、新しいことに出会うと「それは教わっていませんからできません」と答えるようになる。できないことは反復練習しさえすればできるようになるという教育理念が教育界では進められているが、このようなただ繰り返すという練習は、練習そのものをノルマ化してしまい、正解がどこにあるかを探し求めることが第一義の学習目標となり、学習者が自分自身で感じること・考えることをしなくなる。このようにマニュアルにしたがって、考えずにただ反復学習している学習では、ただ繰り返しを覚えるだけで、質的な転換は望めない。習うより慣れろと、絶えず身体を使って実体験し、失敗を繰り返しながら納得しながら解決法を求め探求してゆく体験学習とでは天地の開きができる。
「読書百遍意おのずから通ず」ではなく、
子供が言葉を動きや状況や感情と一緒に覚えるやり方が正しい。
習うより慣れろということの真髄
からだの感性を磨く
高度情報社会とナノテクノロジーの時代、あらゆるものが情報公開され、多くのものが瞬時に世界中に知れ渡るスピードの時代、矢継ぎ早に技術革新が起こっている時代、このような社会の変化に対応して、流されることなく対処してゆくには、自分の中にしっかりしたオリジナルな価値観が作っておかなければならない。生まれてから、これまで生きてきた中で多くの先人や本から受けた影響、失敗や成功体験を整理構築して作り上げられてきたオリジナルなものをみずからの価値観として大切にしなければならない。アメとムチで無理やり作り上げられていった価値観は、所詮メッキにしかすぎず、すぐはげてしまう。自分の中に一本確たる筋を通しつつ、状況がどう変わっても応じられる対応力をもった価値観が育ってこそオリジナルと呼べるので、それをつくるには年余にわたるすぐれた「稽古法」が絶対に必要である。
からだを通して考える
日本で古来から培ってきた、陶芸技術、漆喰工芸、浮世絵、立ち居振る舞いといった体の使い方、各種の道具(斧、ナタ、のこぎり、釘、かんな、刀)などはどれひとつとっても、使いやすいように工夫され、その道具の使い方にも日本に独特の工夫が伝承されてきた。山仕事、魚とり、建築法、造園術などなど日常の経験の中にも、長い年月に伝えられ磨かれた匠の技の伝承があった。ところが開国によって、他国に支配されないように、他国に遅れをとってはならないという至上命令によって、日本人はそれまでの伝統や風習を惜しげもなく捨て、古来の伝統は古臭いとかなぐり捨て、一気に西欧化させてきた。しかも
現在の国際社会ではすべてのことに国家の威信がかかっていると考え、「他国に遅れをとってはならない」と、ますます科学技術を発達させ、IT革命を推進する傾向が強められている。
このような環境の中で、オリジナルなものを身に付けさせるにはどうすればいいか
「教える」「教わる」は必要か
やって見せ、やらせて、ほめてやらねばひとはせぬばい
技は教わってわかるものではなく、盗んで覚えるもの(見取りの能力)
この前提として、やって見せる師がいなければならない。「そういうことができるヒトが目の前にいる」「本当にできるヒトがいるんだ」ということを目のあたりに実感・実体験させることが、どのひとにとっても一番意味のあることである。
ここにひとつの例がある。教えるという文化がまったくない、カナダ極北のショーゴチネ先住民は、ヒトがやるのを見て、そのとおりにできるまで自分で工夫して学んでしまうという見取りの能力が恐ろしいほど高い先住民である。西欧化の波の中で、白人が「さあ、教えてあげましょう」そして「よく練習しておきましょう」などという親切な教えには無頓着で、常に実地体験を重視し、手本を一度見せられると、それができるまでは絶対に教わりにこない。「教えて」とは言わずに、できてから「ほらできるよ」と見せに来る。このような環境で育つと、「教わる」のではなく、自然に覚える、そのようにしておくと、教えようとするよも、ずっと吸収力が高くなる。このようにしておくとチラッと盗み見ただけでわかってしまう能力がつく。これに反して、今盛んなカリキュラム式で教えようとすると、吸収力が低下して、応用力まで衰えてしまう。教育の成果を多岐選択式の試験で検定しようとすると、ますますこの傾向を強め、この中に正解があるという前提で選ぶような方式では、とても応用力や新たな発想は生まれない。用意された正解のあるところで、教えるということは、学ぶものの可能性の芽を摘んでしまう弊害をもたらす。なぜなら、現実の世界には無数の失敗の仕方があり、かつ無数のいろいろな可能性があると観るのが正しい見方であるからである。
たとえば、昔の日本の職人は、目の端でチラッと見ただけで、「そうか、ああやってやるのか」と、一発で覚えたもの。「教えない」という世界にしておけば、吸収力が非常によくなる(ハングリー精神)。ちょっとした一言や、何気ないしぐさを見て、わかってしまう。だから師匠というのは、単なる反復練習・反復稽古で身につく以上のことができるようになっていなければ、本当のものを学生に見習わせることはできない。文科省が一般に必要な知識を広く普及させることばかりに意味を見出して、それを指導書どおりに教えられる教育者のみを多くすることに関心がいってしまい、ガイドライン作り・検定教科書作り・教え方のマニュアル作りにすべての関心が集まり、さらに指導書どおりにうまく実行してくれる教育者の養成(FD)に関心が移ると、学習の基本にある技芸の根本があいまいになってしまう。心身を使った術技であれ、主として頭を使う学問であれ、ものを学ぶということは、自発的な興味によって引き出されてゆくことが最も効率よく、また深くなってゆくものである。だから教師は学習者の興味を引き出すようにしなければならない。
自発的に体感を通して学ぶ
低学年ほど、十分な観察をして子供たちの興味を引き出すようにしなければならない。「勉強は勉強、遊びは遊びとけじめをつけなさい」という妙なまじめさを子供たちに押し付けると、勉強嫌いを大量生産し、本来興味を持って取り組むべき勉強を「苦役」にしてしまい、果ては子供たちの内なる伸びようとする能力をそぎ、人間的に面白みのない、気力のない人間を大量生産する。
歴史の授業であっても、何を発見し、それによって何ができるようになり、副作用としてどのような困った問題が生じたか、各学年に応じて考え学ぶようにすることが大切である。歴史の中に算数も、芸術も、理科も自然と関心が持ち込まれるように方向付ける。その中で子供たちが自分の肌で感じ、自分の頭で考え、どのような状況であっても、ひるまず自分の意見を述べられるような、自分なりのものの見方、価値観を創出できるよう励ます。各自がそれぞれ自分にあった世界で、体感を通して捕まえたものが一番確かなものであるという体験を積み重ねさせる。このようにして育つと、各自、自分のいき方に一つの自覚ができ、深まってゆく。ちょうど、蚕が脱皮を繰り返しながら成熟してゆくというように成熟してゆくと各自が生きがいを感じ、それぞれの独特な味わいをもった人格が出来る。
(「古の武術」に学ぶ 甲野善紀 著 改変一部修正)